竜胆畑で眠らせて

小埼竜胆(おざきりんどう)の腹の中。備忘録のようなもの。

取捨選択の剥奪社会

ブログを書くのは最初なんですけど、

別に大したことを書く気もなく、ただ思ったことを書くまでです。

 

小埼竜胆(おざきりんどう)と申します。

どうぞよろしゅう。

 

 

twitterなんかだと精力的に活動してたりしますが、

なんでわざわざブログを始めたかってのは、

純粋に140文字で納めることの意義を感じなくなったから。

 

短い文章が悪いとは言わないが、

長く書いて読んでほしいときもあるし、

時には誰かに伝わらなくても、自分の思いの整理のために

使うときもあるのです。

 

 

前置きはいい。

 

本題へ入ります

 

 

「取捨選択」というのが我々の社会には求められています。

 

自分のことは自分でする!とか、

必要な情報は自分で選んで手に入れる!とか、

詳細はさまざまあれど。

 

最近のサブカル文化とか見ていると、

「個人の取捨選択」の自由がまるで無くなっている気がしてならないです。

 

例えば某鬼退治漫画。

 

みんな見てますね。ゲームでもどんどんコラボしてますね。

 

ゲーセンのUFOキャッチャーには長蛇の列ができ、

たまごっちとかいうトンデモ商品まで出て、

主題歌はどこに行っても流れてて、

コンビニまでコラボ商品で溢れかえってますね。

 

好きな人にとってはいいと思います。

同じ立場なら誇らしいことだと思います。

 

でも、興味のない(自分のような)人からしたら、

それは「価値観の押しつけ」にあたるような気がします。

 

実際に友達からも「鬼滅見なよ!」「なんで見ないの?」

などとさんざん言われています。

 

まるで

見てないお前の感覚は間違っているとでも言われているかのように。

見てないお前は頭がおかしいと言われているかのように。

 

まさに冒頭で述べた「取捨選択の剥奪」ではないかと思うわけです。

 

実際見ようかなと思ったこともあります。

でも、あまりに街中に溢れすぎてて

すっかり食傷してしまって嫌になりました。

なんなら鬼滅の話されるだけでげんなりします。

 

見なくて何が悪いんですか?

見ないと人権がないとでも言うのですか?

 

もちろん全員ではありませんが、

申し訳ないけどそういう人が多い気がします。

 

 

自分で見るものを選び、見ないものは見ない、

見るものは見る、

そういうのが許される世の中になることを願います。